■讃岐国から香川県へ


天正15年(1587年)、豊臣秀吉の家臣であった生駒親正は讃岐の領主となり、翌年、黒田如水の設計で香東川の砂州に城を築いた。城下町高松の誕生である。その後、生駒4代、松平11代を経て、高松は明治維新を迎えることになる。


明治4年(1871年)、廃藩置県が断行され、高松藩も藩が廃され高松県となった。しかし、高松県はわずか4ヶ月で終わり、明治4年(1871年)11月10日、高松県と丸亀県が合併され香川県(第一次)がおかれた。明治6年2月4日香川県は名東県に合併され、県庁は徳島に置かれ、高松には支庁が設けられた。その後明治8年(1875年)9月5日、名東県から離れ香川県(第二次)となった。当時の香川県の人口は約59万人、高松市街の人口は3万3千余人であった。しかし明治9年(1876年)8月21日、わずか1年で伊予と合併し愛媛県讃岐国と呼ばれる。これは明治21年まで続いたか、同年12月3日、愛媛県から離れて、香川県(第三次)となり現在に至る。この時、高松五番町浄願寺を仮の県庁舎として開庁。県都となった高松では、喜びの祝賀会が盛大に催された。




■香川の交通網の発達


[ 高松市発行『高松百年の歴史』より ]


<讃岐鉄道>


丸亀−琴平間に、讃岐で初めて鉄道が開業したのは、明治22年(1889年)5月23日である。全国で9番目、四国では伊予鉄道に次いで2番目という、比較的早い時期であった。この讃岐鉄道は、金刀比羅宮参拝客の輸送を目的としていたが、当初から路線の高松延長は考慮されていた。

明治26年(1893年)7月、讃岐鉄道会社は、「丸亀−高松間は経済・社会・政治の面からみて、密接な結び付きを有しており、この区間に鉄道を敷設することは急務である」という趣旨で、丸亀−高松間の延長を決定した。その後、明治28年(1895年)9月、鉄道延長の免許証が交付され、その年の暮れ工事に着手。翌年のうちにはほとんど竣工していたが、土砂くずれなどの思わぬ事故があり、開通は明治30年(1897年)2月21日となった。

当時の高松駅の位置は、香川郡宮脇村西浜(現在の県立盲学校付近)であったが、明治43年(1910年)7月1日に新湊町に移された。




<鉄道連絡船の就航>


高松と本州を結ぶ鉄道連絡船は、明治30年(1897年)ごろ、讃岐鉄道汽船会社によって始められた。しかし、本格的には明治36年(1903年)の山陽汽船による高松航路開通に始まる。このときの高松航路は、岡山駅から京橋まで人力車、京橋船着き場から三蟠までを小型汽船、三蟠から玉藻丸で高松へという形で、乗客にとってはたいへんであった。そこで、岡山−宇野間の鉄道敷設と宇野築港を要望する声があがってきた。そして、明治43年(1910年)、宇野線の開通を待って、宇野−高松間の鉄道連絡船が就航したのである。これにより、本州、四国を結ぶ航路の中心は宇高航路になるとともに、高松港は文字どおり本州と四国を結ぶ四国の玄関口として確固たる地位を築くことになった。




■戦火の日


[ 昭和40年7月4日読売新聞香川版所載「高松市戦災記念日」から転載 ]


眠り破るB29−街の80%が灰じんに帰した。


昭和20年(1945年)7月4日午前2時ごろ、市の西方から飛来した米軍の爆撃機「B29」約90機は、高度3000〜5000メートルの上空から、1.8〜2.7キロエレクトロンの油脂焼夷弾約1万個と、375キロ焼夷弾約100個を、まるでじゅうたんを広げるように投下して、人口12万、市街地面積648万平方メートルの高松市を瞬時に「廃虚の町」とした。
その宵には警戒警報がでていて市民は警戒体制についていたが、それが間もなく解除となり市民は安心して眠りについた。ところが程なく突如として、空襲警報がけたたましく鳴り響いた。

市の南西部は炎々たる火の海と化し、猛火の中に肉親を捜し求める親や子、幼児をかかえてすわり込む母親など、空襲はしゅん烈を極めた。夜が明けてみると、街のそこここに真っ黒にこげたり、爆弾で引き裂かれた屍や、逃げ遅れて焼死した者の焼ける異様な臭い等で、実に名状することのできない、さながらの生地獄であった。
午前8時ごろには、ほぼ鎮火、市街の80%(全半焼 16,882 戸)が灰じんとなり、死者927人、負傷者1034人、行方不明者168人、被災者は86400人にのぼった。




■高松の復興 − 城下町からの脱皮


松平藩の城下町として栄えてきた高松市は、明治43年(1910年)、四国と本州を結ぶ国鉄宇高連絡船が就航して以来、交通の要所として発展したが、市は戦災を境に、旧来の城下町的市街地構成から脱皮した近代都市の建設計画を立案、昭和40年(1965年)の推定人口25万人を基礎に実施に移した。

商業地域としては、市街地を南北に貫通する中央通(高松港−栗林線)丸亀町から栗林町に伸びる繁華街、東浜港を起点に南下する通町筋、問屋街の三幹線を基幹に、西部住宅街のターミナル宮脇町の商店街をこれに含めた。

計画は幾度も再検討を加えて一部変更されたり、各種訴訟が持ち上がるなど戦災は長く尾を引いたが、市民のねばり強い力で計画路線に沿った建設整備が遂行され、現在の高松市を築き上げた。