■国東照太の素顔


[ 昭和41年1月10日付の山陽新聞より ]


戦後の高松市長をずっと一人で続けている。戦災で焼け野原の高松市を、急ピッチで復興させ、人口24万の近代都市に仕上げたのだから、相当な怪力、エネルギーの持主である。

官選1、公選5、とイキの続く秘訣は − と聞けば「自分の元気を市政に反映しているからだ。高血圧だ、糖尿病だ・・・・ で何ができますか。ウヘェウヘェ」と腹をおさえておもしろがっている。“おやっさん”とでも呼びかけたい親近感、百軒長屋の縁台で片ハダぬいで、将棋をさしていても、さほどおかしくはない。“市井の人”のイメージが、“五選の魅力”の一つでもあろう。

「政治はね、自分の家の生計の心配がなくなって、手をつけるもんだ。食うためや金もうけのためにやるもんじゃないよ」 − やや発声が悪く、聞き取りにくいが内容は元気があって八方破れ、何でもしゃべり、わだかまりがない。

官選当時の月給は百円、公選となってからも三百円以上は取らなかった。「一銭もいらんのだが、タダの市長も変だから名目だけもらった。たくさんもらっても税金が増えるばかりでねぇ。」 − これが9年間続き、全国に「変り市長」と勇名をはせた。最近では規定でそうもいかなくなり、数年前からは11万5千円の月給取りとなった。

月給に虚心たん懐なのは、十指に余る会社の事実上の“経営マン”であって、月給なんてみみっちいことは問題にしないだけの話、お金に虚心たん懐なわけではない。

「金は汗水たらして得るもの、富は倹約して積むもの、ムダ金を使ってはいけません」という。自分のからだがかせいだ金は生きている。自然生きた使い方を考える。

「金もうけのうまいものはゴマンといるが、使い方のうまいものはザラにはいない。ワシはみんなが喜ぶように使う」 − さきに完成した市民会館の建設資金として、毎年1千万ずつ、計5千万を寄付して市民をびっくりさせた。

「全額負担してもいいが、市民会館の性格にそむくから・・・・」と筋も通している。「人気取りだ」「税金のがれだ」とのカゲ口もあるが単なる“点取り主義”だけではマネはできない。

国東方式は堅い守備、ホームランで得点の・・・・近代野球に通じる。時に“守銭奴”の声も耳にするほど守りは堅いが、パッとじょうずに使うところが“国東の本領”であり“市長五選”のもう一つの魅力でもあろう。

商業学校2年(16歳)のとき、父親が死んで製紙工場の二代目社長になった。朝5時に起き、6時には機械を回す。夜は10時にふろに入り、寝るのは午前1〜2時。人の2倍も働いたが、不況時代でその日暮らし。

ある日、米屋から米と麦を届けてもらい、すぐ焚きにかかった。そこへ米屋の小僧がきて、“米代がたまっているからもう貸さん。すぐ返してくれ”という。「米は半分が飯になっているし、なんとか許してもらったが・・・」くやしくて一晩中眠れなかった。

「食えんほどつらいことはないよ。どうしても成功してやろうと、ガムシャラに働いた」 − “ど根性一代”である。この若き苦難時代が“努力型で金にきびしい”だが、“人情家で涙もろい”性格をもち“浪花節的要素”を多分にもった“いい男”を生んだ。

市議会当時は「年に1回か2回しか市議会に出ない」不謹慎市議? だったが、戦後「市の復興には太っ腹の市長がいる」と市議会から満場一致で市長に推された。

公選2回目の選挙のとき、故三木武吉翁が一党を率いて応援する対立候補と一騎打ちになった。百戦錬磨の豪将と、いなかさむらいの比だったが、これを見事に打ち破り、その後はけんかするものがいなくなった。

戦災復旧が一段落すると、赤字都市の汚名を“倹約して”2年足らず(指定は4年)で返上、昭和30年には近隣15ヶ町村の合併に成功した。

「強引で、ときに暴走するきらいもある。だれでも市長室に入れる」と、一部でいわれるが、太っ腹を買われた市長である。進路が違っていなければ、鉄砲より大砲の方がよろしい。

「明るく住みよい市にするため、税金をなるべくとらんようにしている。水道料金も上げたらいかんといっとる」「玉藻城再建などの問題も多いが、当面はし尿処理、下水など環境衛生面が急務で手っ取り早い」 − ズバズバいって“ウヘェウヘェ”と自分でもおもしろがっている。

朝5時半に起きて朝ぶろ、工場を一巡、念入りにお化粧(顔がツヤツヤしている)して出勤。夜はいくら遊んでも11時には帰る。数学に強く、ものおぼえがいい。帳簿は小さなミスでもすぐみつけるといわれる。

金もうけがうまいから、“実業家市長”の別名もある。