■誕生〜少年時代〜青年時代

<誕生〜少年時代>

明治20年(1887年)1月1日、父長太郎、母ツネの長男として、現在の高松市中野町に生まれる。 家は代々旧藩時代の藩士であったため、士族の肩書きがあった。生家の東側を小川が流れており、 照太の両親はその流れを利用して、手漉きの紙を製造するのを生業としていた。 家には素人力士がいつも2・3人居候をして、紙漉の手伝いをしていたというから、 生計は裕福であり、照太の少年時代は幸福であった。

しかし、高松市立商業学校に進んで2学年に在学していた夏の8月8日、父長太郎の死により、学校を退いて家業を継ぐ。この時、16歳。これから照太の苦難時代が始まった。

<青年時代>


生来健康で、体格も力量も人一倍すぐれていた照太少年は、母を助け、2人の弟と共に一家の中心となって働き通した。しかしながら、当時は紙の原料も需要も共に少なく、従って一家の生計も苦しく、時にはその日の食料にさえ欠くことがあった。その頃の苦しさは、「人間、その日の食物に苦心するほど悲しいことはない。この苦しみを忘れず、どんなことがあっても成功しなければならぬと深く肝に銘じた。」との、後年の述懐にも伺える。家運の抜回に昼夜の別なき奮闘生活が始まった頃、明治の世は終わりを告げ、時代は大正を迎える。大正時代になると、一家兄弟の刻苦勉励の甲斐があって、製紙業は次第に順調な成長を見るに至った。そうして、単なる家内工業に止まらず、製紙業を組織化し、企業化することが大正時代における照太の念願であった。





■家業の拡大、そして常磐産業株式会社へ


時代は大正に移った頃、家業の製紙業は次第に順調な成長を見るに至り、単なる家内工業に止まらず、製紙業を組織化し、企業化することが大正初期における照太の念願となる。その第一着手は、志を同じくする大阪の前田福三郎氏等を相諮し栗林公園の北隣りに合資会社として丸平製紙所を興し操業を開始したが業績は順調に発展して活況を呈した。時あたかも第一次世界大戦が起こり、紙の需要が急に増加し、照太は率先販路の開拓と原料の仕入方面を担当して、大いにその商魂を発揮し、明快な計算力と機敏な取引によって、次第に製紙業界における「国東照太の存在」が鮮明に重要視されるに至った。ところが、丸平製紙との間で、融資についてのトラブルがあり、照太は単独企業を決意し、室新町に工業建設地を定め、機械製紙工業を設置し常磐製紙所と命名して事業を開始し、また、昭和6年(1931年)には大川郡津田町に分工場大東製紙所を建設し、両工場とも盛大に経営した。その後、昭和17年(1942年)の大東亜戦争の苛烈化に伴い、企業整備令が発布され、同令所定の基準以下では単独で事業ができなくなる。そこで、照太は、将来小企業では成功の見込みがないとし、この機会にできるだけ大規模にすべきであると、本社、津田分工場を母体として、高松、津田、大阪より5工場を買収合併し、資本金2百万円の常磐産業株式会社と改組、命名し、社長に就任して新発足し、当時和紙メーカーとしてはその設備規模は全国第一位となった。それ以来、「紙つくり一筋」に専念して家運を興し産をなし、実業界の巨星と注目されるに至ったのはこの頃からである。



■トキワグループの発展


国東照太は昭和21年(1946年)に高松市長に就任し、その後昭和42年(1967年)まで市長職に在任したが、その間、実業家としての手腕と先見性をかわれ、頼まれて事業の経営を引き受け、製紙業にとどまらぬ事業拡張に着手した。それが現在のトキワグループを成すものである。






■公職者として


国東照太52歳の昭和13年(1938年)に行われた、高松市議員選挙に立候補して当選したのが公職についた第一歩であった。時が移り、昭和21年(1946年)3月、衆望を荷って、戦災による高松市復興計画の重要な役割をもつ第12代高松市長に就任した。翌年に行われた、公選第1回市長選挙に立候補し、圧倒的多数を以って第13代市長に当選、以後、下記の通り再選を重ねて、多期勤続のレコード保持者として、全国においても稀有の多選市長となった。
    ※官選: 昭和21年3月29日〜昭和22年3月22日
    ※公選第1期:昭和22年4月7日〜昭和26年4月4日
    ※公選第2期:昭和26年4月25日〜昭和30年4月22日
    ※公選第3期:昭和30年5月2日〜昭和34年5月1日
    ※公選第4期:昭和34年5月2日〜昭和38年5月1日
    ※公選第5期:昭和38年5月2日〜昭和42年5月1日

21年に及ぶ在任中、戦災により灰じんに帰した高松市の復興に全力を傾倒し、四国の関門都市にふさわしい政治、文化、観光、産業都市の建設に尽力した。


<高松の復興>


昭和20年(1945年)、空襲によって中心市街の約80%を焼失した高松市は、直ちに応急復旧に着手すると共に、総合的な都市計画の立案を急ぎ、区画整理事業を基幹として復興に努力し、戦災各都市に先んじて換地処分を実施し、施行地域約108万坪(356万平方メートル)についても、ほとんどその事業を完成した。

<高松市民会館の建設>


昭和36年(1961年)5月に竣工した高松市民会館の建設にあたり、工費3億円のうち、5千万円(金利を加算すると6千万円)を国東照太個人で市に寄付をし、これが市民会館が早期に実現した動機になった。この市民会館の実現によって全国的な大行事が次々と行われるようになった。

<玉藻城跡の公園化>


昭和29年(1954年)、玉藻城跡を財団法人松平公益会から譲り受け、都市公園として整備し、高松港頭の臨海景観を一新し、観光客並びに市民の遊園地帯を実現した。


<その他主なプロジェクト>

    ・隣接町村の合併
    ・高松市中央卸売市場の設置
    ・下水処理施設の整備(高松市営下水処理場)
    ・し尿処理設備の整備(高松市営し尿処理場)
    ・国立高松工業高等専門学校の設置
    ・高松厚生年金老人ホームの誘致
    ・四国地方建設局の誘致
    ・四国電力株式会社の誘致
    ・内場ダムの完成
    ・セントピーターズバーグ市との姉妹都市提携







■“常磐”という名


“常磐”の名付け親は国東照太であるが、名付けた理由は次の2つである。


1.栗林公園正門前に架かっている「常磐橋」にちなんで名付けた。栗林公園のそばで生まれ育った国東照太にとっては、苦しい時代を経て繁栄していったその人生において、栗林公園が心の拠り所のひとつになっていたと思われる。

2.事業の未来への繁栄の願いを込めて“永遠の生命”を意味する“常磐”と名付けた。
“常磐”の意味(『大辞泉』より)
    (1) 常に変わらない岩。
    (2) 永久に変らないこと。
    (3) 常緑樹の葉がいつもその色を変えないこと。